「キューバ・日本の友好活動を通して」

これは、キューバの首都ハバナでの日本語教師としての活動を終えて日本に帰国した、2005年当時に書いた文章です。

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一、キューバと日本を結ぶ救急車

2005年6月、二台の救急車がキューバへ向けて東京湾を出港した。「キューバと日本を結ぶ救急車」というステッカーが貼られた二台の救急車は、神奈川県藤沢市から寄贈された。国で規定された使用期間が経過したものとのことだが、まるで新品のように美しく、これからキューバで過ごすことになる第二の人生でもたくさんの人々の命を救う仕事が待っているに違いない。

これは「キューバに鍼を送る会」という民間のボランティア団体が呼びかけ人となって集まった十数名の有志によって実現したプロジェクトだ。「キューバに救急車を送りたい」と、「キューバに鍼を送る会」代表の高斎房子氏が声を上げたのが2004年の秋。高斎氏の呼びかけに「この指とまれ」で集まった有志が初めて顔を合わせたのが、2005年の年明け。そのときにはすでにグループの一員から藤沢市長のご好意で救急車二台をいただけることが決まった、という報告が入っていた。初ミーティングでは、救急車の中に積み込む寄贈品とカンパの呼びかけ、救急車引き渡しまでのプラン、藤沢市庁舎での救急車引き渡し式、荷造り、輸送の件などについて話し合いが行われた。その後は、そこに集まった全員の一丸となったキューバへの「思い」を糧に、ほんの数ヶ月の間に全ての工程はこなされ、たくさんの荷物を積んだ二台の救急車は東京湾を出港した。

私を含め今回このプロジェクトに関わった十数名のメンバーは全員、各々の人生の中で違った形でのキューバとの関わりを持っている。これまで面識のなかったメンバーも多くいたが、「キューバ」というひとつの軸で結束したパワーは計り知れない。こうした活動を通して感ずることは、キューバに惹かれる者同士のある種の一体感のようなもの。キューバとの出会いや関わり合い方、またキューバに惹かれる理由は各々違っても、どこかで共通の「キューバ」を胸に抱いているような連帯感。

正直、今回最初に救急車をキューバへ送るアイデアを聞いたときは、どこから手をつけたらいいのか途方に暮れたものだが、キューバを愛する人が人を呼び、まさに不可能と思われることさえも可能にしてしまうような力が働いた。

二、日本語教師として過ごしたキューバ

私がこのようにキューバと日本の友好活動に関わらせていただくようになってから、実はまだ日は浅い。初めてキューバを訪れたのが1998年、24歳の時であった。あの、太陽と空気とサルサのリズムと人々の温かさにイチコロでやられてしまい、キューバが大好きになった。その後とにかくキューバと関わりたくて、ちょこちょことキューバ関係の会合などに顔を出させていただきながら自分にできることを探していた。そんな中、ご縁が巡ってきたのが今から二年前2003年のこと。日本語教師としてキューバへ渡る機会を得たのだ。晴れて2003年3月、たくさんの教材をスーツケースに詰め込んで、いつもの旅行気分とは違った緊張感を覚えながらハバナのホセ・マルティ空港に降り立った。

キューバで出会った生徒たちの日本語を勉強したい動機は様々であったが、彼らに共通していたものは日本に対する憧れと尊敬の念であった。第二次世界大戦で焼け野原の何もないところから再起し、経済大国にまで成長した日本という国、その国民の賢さと勤勉さを彼らは心から尊敬していた。自分には果たして彼らが尊敬の念を抱いている「日本人らしさ」が備わっているだろうか、と不安に思いながらも精一杯授業に取り組んだ。

キューバの日本語教育事情について少し触れると、現在公的な日本語教育機関は首都ハバナに四箇所あるに留まっている。そのうち三年間以上日本語の勉強を続けられる環境としては、ハバナ大学の日本語学科に限られている。その他の三機関はいずれも二年生までしかクラスを設けていないため、日本語の学習を三年以上続けるにはハバナ大学へ編入学をするか、あとは独学で勉強を続けるほかない。独学といっても、教材や辞書が書店へ行けば売っているわけでもなく、テレビやラジオで日本語講座が開かれているわけでもないので、日本語を真に習得するにはかなり厳しい環境であると言わざるをえない。また、せっかく学校で苦労して覚えた日本語も、卒業後全く使わなければあっという間に錆びれ使い物にならなくなってしまう。こういう点では、国同士の関係が強い中国の場合、中国系のホテルの建設などが何箇所かで進んでおり、それに伴い中国語クラスの増設や卒業後の就職先も確保されている。

勉強することとそれを仕事に活かすということはやはり切り離せないものなので、いつの日かその両方の面でキューバにおける日本との関係性の拡充が実現されることを願ってやまない。

三、キューバ人から学んだもの

日本語教師としてキューバへ渡ったわけであるが、正直私が生徒たちに教えることができたわずかな「日本語」よりも、何倍もの「生きる知恵」を彼らから教わった。

キューバはご存知の通り社会主義の国であり、現在も人々は平等社会の一員としてわずかな給与と配給に支えられて生活している。ソビエト連邦の崩壊後、日々の暮らしに十分な配給は与えられず、国民の暮らしぶりは決して楽ではない。しかしそれでも、住む家があり、病気になっても医療費は無料、子供の教育費もかからない社会というのはつまり、生きる上での最低限の保障はされている社会ということだ。国民は、必要以上に「豊か」になることはできない。しかし、「人間らしく生きる」という価値が国民全員に平等に与えられている。「必要最低限のものしかない」ということと、「必要最低限のものはある」というこの絶妙なバランスが、キューバ人独特の陽気さとしなやかさを育んでいるように思えてならない。一つの見方からすれば、必要最低限以上の物が溢れている社会というのが我々が暮らす資本主義の物質社会であり、必要最低限の物さえない社会というのがストリートチルドレンが道を埋める貧富の格差激しい第三諸国であるとも言える。キューバはそのどちらにも属さない。

キューバは物が豊かではないので、非常に物を大切にする。また、あれだけ物を大切に扱えるのは、それだけ心の余裕というか丁寧な心が彼らに備わっているからだとも思う。一杯のお茶も心を込めて淹れる丁寧さ、ほんの些細なプレゼントも心から喜んで壁に飾る気持ち。するとお茶もいつもの何倍も美味しくなるし、どうってことのないプレゼントもいきいきと輝いて見えてくる。こういった「丁寧な心」や、キューバ人の誰からも感じた「誇り高さ」、また時には騙された、と感じることもあったが、認めざるを得ないキューバ人独特の「賢さ」などは、私がキューバで学んだ「生きる知恵」だ。生まれた時から「豊か」が当たり前であった私にとって、キューバ人が持つ「賢さ」は、はじめは汚いもののように映ることもあった。しかし、彼らにとって「賢くある」ことは、生きるうえで必要なこと。そのことに気付いてからは、賢いキューバ人に負けてなるものか、と自分は更に賢くあるよう努力した。

物が十分にない分、キューバ人には毎日を豊かに生きるたくさんの知恵が備わっている。そんな彼らの生きる知恵を、「お知恵拝借」させていただいて我々の日常を少しでも豊かにすることができれば、それこそ我々日本人が持つ「賢さ」なのではないか、と思う。

四、これからのキューバとわたし

日本帰国後、今はここ日本でキューバとの友好活動を続けている。「キューバへ救急車を送るプロジェクト」は今年に続いて来年もキューバへ救急車を送る計画だ。その他お手伝いさせていただいているキューバ関係の友好団体はいずれも熱心な活動が続けられている。現在これらの活動を中心になって進めてくださっているのは多くの素敵な先輩方だ。キューバとの関係はすでに二十年、三十年といった方も多く、本当に頭が下がる。これらキューバと関わる多くの先輩方から学ぶものは、熱いハートと素晴らしい行動力だ。今後も先輩たちから多くのことを吸収させていただきながら、少しずつでも若い世代が中心となってキューバとの友好活動を進めていかれるよう頑張りたい。

時代の流れの中で、キューバも日本も世界も変化を遂げていく。そんな変化の中、自分自身も成長を続けながら、キューバを応援していきたい。キューバを支えつつ、同時にキューバからもたくさんの価値を与えてもらえるような、そんな友好活動をこれからも続けていきたいと思う。

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